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仙台高等裁判所秋田支部 昭和33年(ネ)13号 判決 1964年3月25日

第一一一号事件控訴人・第一三号事件被控訴人 小松喜一 外三名

第一一一号事件被控訴人・第一三号事件控訴人 良一こと小松喜一の承継参加人 杉沢正直 辻兵吉

主文

第一、昭和三二年(ネ)第一一一号事件控訴人(一審被告)らの控訴を棄却する。

第二、昭和三三年(ネ)第一三号事件に付

原判決を次の通り変更する。

昭和三三年(ネ)第一三号被控訴人(一審被告)高階弁治、高橋徳蔵、杉沢正直は別紙第一図面表示の<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><5><4><3><2><1><イ>の各地点を順次連結する線に囲繞された実測八反二一歩の地域が、同号控訴人(一審原告)所有の仙北郡千畑村黒沢字中山五番の四山林に属することを確認し同被控訴人(一審被告)らは該地内に立入り立木の伐採其他同号控訴人(一審原告)の所有権行使を妨害してはならない。第三、昭和三三年(ネ)第一三号被控訴人(一審被告)高階弁治、小松喜一、小松広治は連帯して同号控訴人(一審原告)に対し金二三五、六四五円及之に対する昭和二七年一二月一一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

第四、同号控訴人(一審原告)その余の請求を棄却する。

第五、訴訟費用は第一、二審とも全部同号被控訴人(一審被告)の負担とする。

第六、本判決は第三項に限り昭和三三年(ネ)第一三号控訴人(一審原告)に於て金七〇、〇〇〇円の担保を供するときは仮に執行することが出来、同号被控訴人(一審被告)高階弁治、小松喜一、小松広治に於て金二三五、六四五円の担保を供するときは仮執行を免れることが出来る。

事実

昭和三二年(ネ)第一一一号控訴人・昭和三三年(ネ)第一三号被控訴人(第一審被告ヽヽヽ以下単に一審被告と呼称する)訴訟代理人は昭和三二年(ネ)第一一一号事件の控訴の趣旨として「原判決中第一審被告敗訴部分を取消す。第一審原告の請求を棄却する、訴訟費用は第一、二審共第一審原告の負担とする」及び昭和三三年(ネ)第一三号事件に付「控訴棄却」の各判決を求め。昭和三二年(ネ)第一一一号被控訴人・昭和三三年(ネ)第一三号控訴人(第一審原告ヽヽヽ以下単に一審原告と呼称する)訴訟代理人は昭和三二年(ネ)第一一一号事件に付「控訴棄却」の判決を求め、

昭和三三年(ネ)第一三号事件に付控訴の趣旨として、

(第一次の請求。)

(一)  原判決中原告その余の請求を棄却するとある部分を取消す。

(二)  原判決を次の如く変更する。

(三)  一審被告高階弁治、同高橋徳蔵、同杉沢正直は別紙添付図面表示の<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><5><4><3><2><1><イ>の各地点を順次連結する線に囲繞された実測反別八反二一歩の地域が一審原告辻兵吉所有の仙北郡千畑村黒沢字中山五番の四山林に属することを確認し同被告等は該地域内に立入り立木の伐採其他一審原告辻兵吉の所有権行使を妨害してはならない。

(四)  一審被告高階弁治、小松喜一、小松広治は連帯して一審原告辻兵吉に対し金三〇万円及之に対する昭和二七年一二月一一日以降完済まで年五分の金員を支払え、(五)訴訟費用は第一、二審共一審被告等の負担とする、(六)第四項に限り仮に執行することができる。

(第二次の請求。)

(一)  原判決中原告其余の請求を棄却すとある部分を取消す。

(二)  原判決を左の如く変更する。

(三)  一審被告高階弁治、同高橋徳蔵、同杉沢正直等は別紙図面表示の<ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><ヘ>の各点を順次連結した線に囲繞された実測反別五反一畝一〇歩の地域が一審原告辻兵吉所有の仙北郡千畑村黒沢字中山五番の四山林に属すことを確認し同被告等は該地域内に立入り立木の伐採其他一審原告辻兵吉の所有権行使を妨害してはならない。

(四)  一審被告高階弁治、高橋徳蔵は別紙添付図面表示の<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><6><5><4><3><2><1><イ>の地点を順次連結した線に囲繞された実測反別二反九畝一〇歩の地域は同人等所有の仙北郡千畑村黒沢字中山五番の二山林二反八畝一三歩(公簿反別)に属していたが現在取得時効により一審原告辻兵吉が四分の三の所有者であることを確認し同人等は秋田地方法務局六郷出張所に対し該地域実測反別二反九畝一〇歩を前記字中山五番の二から分割する手続をした上一審被告高階弁治は該分割地域に関する自己共有持分四分の二を、同高橋徳蔵は同地域の共有持分四分の一を夫々一審原告辻兵吉に対し時効取得による所有権移転の登記申請手続をせよ。

(五)  一審被告高階弁治、同小松喜一、同小松広治は連帯して一審原告辻兵吉に対し金三〇万円及之に対する昭和二七年一二月一一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

(六)  訴訟費用は第一、二審共一審被告五名の負担とする。

(七)  第五項に限り仮に執行することが出来る。

(第三次の請求)

(一)  原判決を左の如く変更する。

(二)  一審被告高階弁治、同高橋徳蔵等は別紙添付図面表示の<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><5><4><3><2><1><イ>の地点を順次連結した線に囲繞された実測反別八反二一歩の地域が一審被告等所有の仙北郡千畑村黒沢字中山五番の二山林八畝一一歩(公簿反別)に属していたが現在取得時効により一審原告辻兵吉が四分の三の所有者であることを確認し同被告等は秋田地方法務局六郷出張所に対し該地域の実測反別八反二一歩を前記字中山五番の二から分割する手続をなしたる上一審被告高階弁治は右分割地域に関する自己の共有持分四分の二を同高橋徳蔵は同上地域の共有持分四分の一を夫々一審原告辻兵吉に対し時効取得による所有権移転の登記手続をせよ。

(三)  一審被告高階弁治、同小松喜一、同小松広治は連帯して一審原告辻兵吉に対し金三〇万円及之に対する昭和二七年一二月一一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

(四)  訴訟費用は第一、二審共一審被告五名の負担とする。

(五)  第三項に限り仮に執行することが出来る。

との判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述と証拠の提出、援用及び認否は一審原告代理人に於て

第一、第一次請求の請求原因として原判決事実摘示欄記載の外に左記の通り加える。

本件係争地全域に亘る杉立木(一審被告小松喜一等が伐採した立木)が昭和三三年当時に於て五十年以前の植栽木であること、其隣地である一審原告主張の五番の四、一審被告主張の七番の一の現在生立木とが略同年代の植栽木であることは鑑定人沢藤雅也の第一鑑定書中鑑定事項第二の理由(9) 項及同人の昭和三四年六月一五日付証人調書によつても明らかである。

第二、第二次請求の請求原因として

一審原告が主張する中山五番の四の地域中当審検証調書丙一、丙三の地域は五番の四に属せず一審被告主張の中山五番の二の地域の一部であると認定される場合に於ても第一次請求原因に於て主張する様に昭和一一年八月二八日前主樫尾喬蔵から買受けた際現地で同人から五番の四として土地、立木共に引渡を受け爾来平穏、公然、無過失に占有を継続して来たので其の後一〇年を経過した昭和二一年八月二八日を以て民法第一六二条の取得時効が完成し一審原告の所有に帰したものである。

而して時効完成時の五番の二の所有者は一審被告高階弁治が四分の二、同高橋徳蔵が四分の一、高階敬蔵の子高階正一が四分の一であつたところ時効完成後の昭和二二年二月高階正一の持分四分の一は高階弁治に更に弁治から小松喜一に、喜一から杉沢正直に夫々所有権移転登記がなされた。

従つて一審被告杉沢正直の持分四の一に対しては一審原告は取得時効を以て対抗することが出来ないので予備的に丙一丙三の地域に付ては時効取得により現所有者に対し分割手続の協力と杉沢被告を除く爾余共有一審被告に対し時効取得による所有権移転の登記申請手続を求める。損害賠償請求については第一次請求と同一である。

第三、第三次請求の請求原因として

第一次、第二次請求が容れられず係争地の全域が相手方主張通り五番の二の一部であつたとしても第一、第二次請求原因に於て主張する通り一審原告は係争地全域を五番の四として前主から立木と土地を引渡され同一山守を使用して平穏公然善意無過失所有の意思を以て占有を継続して来たので十年の取得時効により昭和二一年八月二八日一審原告の所有に帰したものである。損害賠償及登記関係については第一第二次請求原因に同じ。

第四、係争地を含む字中山五番の四、之に接する五番の三、七番の一を一審原告前主樫尾喬蔵が所有するに至つた事由と一審原告が之を譲受けた事実関係は次の通りである。

一、訴外高階豊治の先代高階佐藤右エ門は明治二四年一月二六日隠居し同二八年一月三日死亡したが其生存中字中山七番山林一町六反四畝二四歩を所有し其の死亡と共に遺産相続人高階豊治の所有となりたるところ同年一二月一六日樫尾良助が譲受け昭和八年二月三日その死亡により家督相続をした樫尾喬蔵の所有に移り更に昭和一一年八月二八日原告が譲受けたものである。

二、同字五番の四は現在右七番から分割された七番の一の隣地であつて明治年代に前記高階豊治が父子二代に亘り部落総代として功労者であつたところより黒沢部落から一審原告主張の嶺線を境界として分割贈与引渡を受けたものである。

本件五番の山林はもと黒沢部落の所有名義に存し明治三七年六月中五番の一、二に分割され明治四四年四月二一日部落重立者高橋儀助の所有名義になつたが昭和三年一一月部落財産統一により五番の二は一旦千屋村に統一せられ間もなく昭和四年高階諸造外三名の部落重立者に贈与され、一方高橋儀助所有名義当時の明治四五年五番の一から更に五番の三を分割し五番の三は大正元年樫尾喬蔵の所有に帰した。

三、昭和五年五番の一から更に五番の四が分割され五番の四は高橋儀助から其子高橋繁治に同人から黒沢部落総代高階敬蔵に次で樫尾喬蔵に所有権移転登記がなされた。

次で五番の一から更に五番の五乃至一四に分割され右は夫々部落民の個人所有になつた。

右の通り字中山五番は元来は千屋村黒沢部落の所有であつたが明治年代に右山林に縁故のある部落民や部落貢献者に夫々分割譲渡され各人に所有占有させていたのであるが公簿上の分割手続が未了であつた関係から部落重立者高橋儀助名義として部落財産統一から除外されていたのである。

四、従つて五番の四は公簿上は昭和五年高橋儀助によつて分割されたことになつているが実際は明治二八年以前に黒沢部落から分割譲渡せられていたのである。

さればこそ明治二八年一二月樫尾良助が高階豊治から七番の一の山林を譲受けた際その隣地で事実上豊治が黒沢部落から分割譲渡を受けていた五番の四(本件係争地を含む)を一括して売渡したもので爾来樫尾良助は五番の四、七番の一の山林に杉を植林し更に昭和二年頃現在の土盛、焼杭等を設置して隣地との境界を明確にし来つたものである。

従つて係争地を含む五番の四は隣地七番の一と共に明治二八年以降黒沢部落又は部落民が所有占有した地域ではない。

五、高階豊治は明治三二年一二月九日禁治産宣告を受け同三四年二月死亡したが先是明治二七、八年頃全財産を処分して仙北郡角館町附近の白岩鉱山に投資するに至つたもので樫尾良助に本件五番の四が譲渡されたのも其の機会であつた。偶々右鉱山経営が其の後失敗に帰した結果同人は精神に異常を来し禁治産の宣告を受けたのであつて右禁治産と五番の四の処分とは関係がない。

六、五番の二と四の境界は嶺線であるから五兵衛沼の北岸地帯に当る係争地は当然五番の四の一部であり五兵衛沼水域の南方もその地域に属していたのであるが昭和三年頃黒沢部落に於て五兵衛沼を築造したので水没した。

当時部落を代表して藤島作治、高階伊之助が山守高橋仁三郎を同伴して当時の所有者樫尾喬蔵に対し代替地を提供するといつて五番の四の一部を沼敷地として提供を求め、喬蔵が承諾した事実は一審証人高橋新之助、同樫尾喬蔵、二審証人高橋光新の証言に照し明白である。

アヤシ沼、五兵衛沼は共に人工池であることは沢藤第二鑑定によつても承認せられる。

七、一審原告は昭和一一年八月二八日本件五番の四、五番の三、七番の一を含め訴外樫尾喬蔵所有の黒沢所在の山林全部を地上立木共譲渡を受け実地を踏んで引渡を受けたが右山林には喬蔵先代良助の明治末期に植林した杉立木が其の管理育成宜しきを得て欝蒼としているのに一審被告所有の山林殊に五番の二には杉一本も生立せず諸所に雑木が生立し赤松数本が点在するのみで山形林相全く異り嶺線土盛焼杭数十個整然と連り境界は分明であつた。

然かも樫尾喬蔵以来黒沢部落内に居住する高橋新之助、その子高橋光新を山守として雇い、看守、育成、間伐に当らせ原告方に於ても父辻兵太郎山林係藤野三次郎等が毎年定期に山林実地を見廻り昭和一一年、同一四年には五番の四全立木に付全面的下刈を行い同二〇年には二〇〇本の杉植林の間伐ををなし係争地からも四、五日以上を費して伐採搬出を行つた事実も存するが何人からも異議を受けたことがない。従つて万一係争地域内に五番の二の地積があつたとしても十年の取得時効が完成しているのである。

八、一審被告申請の沢藤第二鑑定書には係争地が五番の四に含まれない様な記載があるけれども右は同鑑定人が争のない五番の一、五番の五乃至一四の現地のみによつて鑑定を行い係争地の隣地である五番の三、七番の一の実地を測量しその面積地形林相を対照することを怠つた誤に基く。

と述べ

当審に於ける一審被告の主張に対し

字中山五番の四山林二反八畝二七歩が公簿上は昭和五年一一月二二日五番の一山林三反八畝二七歩から分筆されたこと(但事実上の分割は明治年代である)右により残存した五番の一山林一反歩が公簿上高橋儀助個人名義当時の昭和七年一月四日一審被告主張の通り五番の一、五番の五乃至一四に分割されたこと、訴外高階豊治の身分関係、出生、死亡日時が一審被告主張通りであること、字中山五番の四の山林所有権を一審原告が取得した当時から現在迄の間に隣地同字五番の二の土地登記簿上の所有名義人が一審被告主張の通りの共有関係で順次移動して行つた事実は認めるがその余の事実は不知又は之を認めない。

一審原告の一〇年の取得時効が完成した昭和二一年八月二八日当時の五番の二の共有名義人は高橋徳蔵四分の一、高階弁治四分の二、高階敬蔵四分の一であつたが完成前の昭和一七年一〇月一〇日高階正一が高階敬蔵の持分を家督相続で相続しているから敬蔵の持分は正一の持分であり一審原告は当然に取得時効を以て同人らに対抗し得るものである。其後高階正一の持分四分の一は高階弁治に弁治から小松喜一に、喜一から杉沢正直に夫々譲渡登記せられたことは争わないが時効完成時並に現在高橋徳蔵が四分の一、高階弁治が四分の二の共有持分権を有する事実に変動はないから此の持分四分の三に対して一審原告が時効取得を主張し得ることは当然である。

一審被告は一審原告主張の通りなら五番の四は五番の二の地積に数倍する不合理を生むと主張するが当審北島四郎の鑑定結果によると五番の二は一町一反八畝一八歩、五番の四は一町五反一畝一二歩で係争地二反九畝二歩を加えても計一町八反五畝二歩で一審被告の主張する様な不合理を考える余地がない。

と述べ。

一審被告代理人に於て

一審原告の当審に於ける主張事実中

第一次請求原因に対し

秋田県仙北郡千畑村黒沢字中山五番の二の山林中略東西に通ずる嶺線を以て南側面の地域は雑木林で北側面の東方地域に杉立木、西方地域(五兵衛沼の上位地域)は雑立木に不完全成長を示す杉立木が散在していて林相が確然としていることは事実であるが右は現地検証の結果と吾人経験則によつて明白な通り山林経営上地域の地質如何により杉立木の植林より雑立木が採算上有利な場合があり本件五番の二も五番の四に隣接した部分が杉植林により採算がとれ、その余の地域は雑立木が経営上有利な地域であつたからに過ぎない。一審原告は右嶺線が自然の境界をなすものであると言うが後記の通り元来是等の土地は五番という一筆の土地を分筆したものであるから必しも自然の地形を以て境界としたものではない。

第二次請求原因に対し

一審原告主張事実を否認する。

仮に係争地域を一審原告が占有していたとしても一審原告が訴外樫尾から所有権移転登記を受けた昭和一一年八月二八日当時の五番の二の共有者は次の三名なるところ、

星山平助 全地持分四分の一

高階弁治  〃  四分の二

高階敬蔵  〃  四分の一

昭和一三年 七月 九日現在

川原幸一郎 〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

高階敬蔵  〃  四分の一

昭和一三年 九月二八日現在

原久治   〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

高階敬蔵  〃  四分の一

昭和一八年 九月二〇日現在

高橋徳蔵  〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

高階敬蔵  〃  四分の一

昭和二二年 二月二七日現在

高橋徳蔵  〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

高階正一  〃  四分の一

昭和二六年 六月 五日現在

高橋徳蔵  〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の三

昭和二七年 九月一二日現在

高橋徳蔵  〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

小松喜一  〃  四分の一

昭和二七年一二月一日現在より今日まで

高橋徳蔵  〃  四分の一

高階弁治  〃  四分の二

杉沢正直  〃  四分の一

という移動があつて一審原告主張の取得時効の始期と終期に移動のない持分は高階弁治の四分の二、高階敬蔵の四分の一のみで高橋徳蔵は昭和一八年九月二〇日始めて共有権を取得したものであるから一審原告主張日時には時効完成していない。

又高階弁治は昭和二七年九月一二日四分の一を小松喜一に移転し高階敬蔵(正一)は昭和二六年六月五日高階弁治に持分移転をしたので結局一審原告主張の時効取得は高階弁治の持分四分の三を対象としているけれ共弁治が喜一に移転した四分の一は従来有していた四分の二の内の四分の一で敬蔵から取得した四分の一の持分ではない。尚共有物に対する時効取得は共有者全員について合一に確定すべきものと思料するので本件事案については時効の完成はないものと信ずる。

第三次請求原因について

第二次について述べたところと同様で排斥せらるべきものである。

と述べその主張として

一、仙北郡千畑村黒沢字中山五番は山林八反五畝一〇歩で明治三七年二月千屋村黒沢部落有となるまで千屋村の所有で別紙第三図面の形状をなしていた。

二、明治三七年六月黒沢部落有当時右五番は分筆され五番の一山林五反六畝二七歩と、五番の二山林二反八畝一三歩となつて別紙第四図面の形状となり

三、其の後五番の一の単独所有者となつた高橋儀助は明治四五年三月更に之を五番の一山林三反八畝二七歩、五番の三山林一反八畝に分筆して別紙第五図面の形状とし

四、次で昭和五年一一月二二日右高橋儀助は右五番の一山林三反八畝二七歩を更に分筆して五番の一山林一反歩、五番の四山林二反八畝二七歩として別紙第六図面の形状となし

五、其の後右同人は右五番の一山林一反歩を昭和七年一月四日更に五番の一及五番の五乃至一四に分筆し内五番の一三のみを面積山林一畝二〇歩とし爾余の地番はいづれも各二五歩に細分し別紙第七図面の形状にして現在に至つた。

六、一審原告は本件五番の四の山林をその前主樫尾喬蔵が明治年間に訴外高階豊治から買受けたと主張するけれ共右高階豊治は嘉永六年一一月二六日生れで明治二四年一月二六日前戸主の隠居により家督相続をなし明治三二年一二月九日大曲区裁判所で心神喪失の故を以て禁治産の宣告を受け明治三四年二月一九日死亡した者で登記簿上は勿論土地台帳謄本に徴しても同人が五番の四は勿論五番の一乃至一四の土地の所有名義人となつた形跡全くなく同人が死亡した明治三四年二月一九日当時五番山林は未だ分筆せられておらず所有者も千屋村或は黒沢部落有であつて一審原告の主張は事実無根という外ない。

五番の四は前記の通り昭和五年一一月二二日当時の所有者高橋儀助により五番の一から分筆されたもので昭和八年七月一九日高橋繁治に所有権が移転し同日更に高階敬蔵に移り同年八月五日樫尾喬蔵に所有権が移転し昭和一一年八月二八日一審原告が之を買受けたものである。

七、訴外樫尾喬蔵が訴外高階豊治から明治年間に買受けた山林は右の通り五番の四ではなく五番の四に接続する七番の一山林一町一反二畝歩であつて一審原告は之を混同誤つた主張をなしおるものである。

八、現に一審原告所有の中山五番の三山林一反八畝は大正元年八月一二日樫尾喬蔵に所有権が移転して居り同人の証言によつても数回に亘つて買受けたことが認められるから七番の一は明治年間に五番の三は大正年間に五番の四は昭和年間に取得したものと認められる。

九、一審原告は五番の二と五番の四の境界線は<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>を結ぶ嶺線で、五番の四と五番の一乃至一四、七番の二乃至五との境界は<リ><ヌ><ル><ヲ>を結ぶ嶺線であると主張し其の主張の嶺線の存在することは検証の結果認められるけれ共千畑村備付の同字の山林原野図によると五番の四と五番の二は東西に(五番の四の西端が五番の二の東端)接しているが南北には接して居らず然かも五番の四の西端は五番の一の西端の延長線(<リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)(ナ20)(ナ19)(ナ18)を結ぶ線)を以て区劃せられており夫より西方には五番の四の範囲が存在しないことが認められるから一審原告の主張は失当である。

一〇、字中山五番の四の地積は二反八畝二七歩、五番の二の地積は二反八畝一三歩でその差僅か一四歩に過ぎないのに一審原告主張の通りとすれば実測面積に於て五番の四は五番の二に数倍広い地積となる不合理を生ずる。

と述べた。

(証拠関係)<省略>

理由

第一、秋田県仙北郡千畑村黒沢字中山五番の四山林二反八畝二七歩(公簿面積)が一番原告の所有で、同字五番の二山林二反八畝一三歩(公簿面積)が一審被告高階弁治、高橋徳蔵、杉沢正直三名の共有に属することは当事者間に争がない。

第二、然るところ一審原告は別紙第一図面表示<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><5><4><3><2><1><イ>の各点を順次連結した線に囲繞された実測八反二一歩の地域は一審原告所有五番の四の範囲であると主張(第一次請求)するに対し、

一審被告は右両地番の境界は別紙第一図面表示<リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)の各点を結んだ線であると争うので以下検討を加える。

(一)  (係争地の位置と地勢)

原審及当審(第一、二回)の検証結果と成立に争のない甲第二〇号証(甲第四号証及不知を以て争われているが乙第一号証も同一原図に基くと思料される)当審鑑定人沢藤雅也(第二回)、同北島四郎の各一部鑑定結果を綜合すると別紙第一図面の<イ><ロ>乃至<リ>を経て<ナ>に至る線は一連の分水嶺であつて五番の一乃至一四、七番の五乃至二の各西端部を結ぶ線は沢でありその北端にアヤシ沼があり、一方五番の三、四の東端部を結ぶ線にも沢があつてその北端部に五兵衛沼があるが五兵衛沼と沢の接触点に近く沢の合流点が存在する。

五番の三、四は南、西部から七番の一乃至五に包囲せられた形になつていて右七番の二乃至五、五番の一乃至一四、争のない五番の二部分は前示分水嶺の西側に、五番の三争なき五番の四、及係争地は分水嶺の東側に存することが認められる。

(二)  (係争地を含む字中山五番山林と同字七番山林の沿革)

(1)  字中山七番

成立に争のない甲第一五号証の二乃至五、乙第四号証によると

中山七番山林一町二反四畝二四歩(公簿面積………当審北島鑑定書が援用する山林原野其他原由取調帳によると反別一町八反歩)は訴外高階佐藤右エ門の所有であつたが明治二八年三月六日遺産相続により訴外高階豊治の所有となり更に明治二八年一二月一六日訴外樫尾良助に売渡され、昭和六年三月一六日分筆されて七番の一山林一町一反二畝歩、七番の二山林一反二畝二四歩となり、七番の二は更に昭和七年一月四日七番の三、四に分筆されたが右樫尾良助死亡により訴外樫尾喬蔵が家督相続人として昭和八年二月三日その所有権の相続手続をなした上同年八月五日右七番の二、三、四を夫々訴外杉沢富之助、原倉之助、高階日出男に売渡し七番の一のみ引続いて所有した後昭和一一年八月二八日一審原告に売渡した。

(2)  字中山五番

成立に争のない甲第二、三号証、甲第一五号証の一、甲第一六号証、乙第二号証の一乃至四、乙第三号証の一乃至四、乙第六号証の一乃至五によると

字中山五番山林八反五畝一〇歩(公簿面積………当審北島鑑定書が援用する山林原野其他原由取調帳によると反別六反六畝二八歩)は千畑村の前身千屋村の所有で明治三七年二月千屋村黒沢部落有(前示原由帳によると村持総代人高階藤右エ門とある)となり、同年六月五番の一山林五反六畝二七歩、五番の二山林二反八畝一三歩に分割され前者は訴外高橋儀助名義に後者は部落有のまま保持されていた。

訴外高橋儀助は明治四四年四月二一日五番の一山林五反六畝二七歩に対し保存登記をなし、次で大正元年八月一二日五番の一山林三反八畝二七歩五番の三山林一反八畝歩に分筆し後者を同日訴外樫尾喬蔵に譲渡した。

訴外高橋儀助は昭和五年一一月二二日五番の一山林三反八畝二七歩を五番の一山林一反歩、五番の四山林二反八畝二七歩に分割し、更に昭和七年一月四日五番の一山林一反歩を五番の一山林二五歩五番の五乃至一四(五番の一三山林一畝二〇歩の外は各山林二五歩宛)に分割したが何れも未登記のまま昭和八年四月七日死亡したので訴外高橋繁治が同年七月一九日家督相続による登記をなした上五番の一、五番の四のみの分筆登記手続を行つた上同日二筆を訴外高階敬蔵に譲渡し右訴外人は更に同月二九日五番の一に付前示の通り分筆登記手続をした上夫々一審被告高階弁治等既に分割を受けた者に所有権移転登記を行い、五番の四については同年八月五日訴外樫尾喬蔵に売渡名義で所有権移転登記手続をなした。

訴外樫尾喬蔵は昭和一一年八月二八日五番の三、四の各山林を前記七番の一山林等と共に一括して一審原告に売渡し。

五番一、五番の五乃至一四の各山林は爾後多少の移転があつたが以後は地積を変更することもなく夫々現所有者に属し。

一方黒沢部落有のまま残存していた五番の二山林二反八畝一三歩は昭和四年七月二七日部落名義に保存登記された上同年八月一四日部落財産統一で一旦千屋村名義に移つた後同年一一月一四日一審被告高階弁治外三名に贈与され昭和六年二月一六日その旨登記され爾来一審被告主張の経過をたどつて現に一審被告三名の共有に属する。

右認定の分割(分筆)と移動の経過を図示すると次の通りである。

A、中山五番

表<省略>

B、中山七番

表<省略>

右の経過によつて明らかな通り昭和一一年八月二八日一審原告は訴外樫尾喬蔵から本件各地の譲渡を受け五番の四に於て五番の二の所有者である一審被告高階弁治外二名と境界を接するに至つた。

(三)  争点に対する判断

(A)  五番の三、五番の四の地域の移動について、

一審原告はその前主訴外樫尾喬蔵の父良助が本件係争地を含む五番の四、五番の三、七番の一等を所有するに至つた事実関係を次の様に主張する。

七番の山林は夙に高階佐藤右エ門の所有で明治二八年一月三日遺産相続をした高階豊治から同年一二月一六日買受けたもの、五番の四は現在右七番から分割された七番の一の隣地で明治年代に右高階豊治が父子二代に亘り部落総代として功労があつたので黒沢部落から一審原告主張の嶺線を境界として分割贈与引渡を受けていたものであつた。夫で明治四五年五番の一から五番の三を分割、昭和五年には更に五番の一から五番の四を分割して夫々樫尾喬蔵に所有権移転登記を行つたものである。

この点について原審及当審証人樫尾喬蔵は次の通り証言する。

「五番の四等は黒沢部落から分与を受けていた実際の権利者高階豊治から買受けたもので登記面で訴外高階敬蔵から買受けた様になつているのは登記の都合上に過ぎない」(原審に於て同証人は高階豊治から明治四〇年頃買受けたと述べているが同人は前認定の通り明治三四年死亡しているので後に認定する如く四〇年頃と述べたのはその頃植樹した年代を混同した誤りで明治年代に高階豊治から買受けたことを述べんとする主旨と認められる)

右証言によつて前認定の高階敬蔵を介して名義移転が行われた一連の経過を見ると一見甚だ奇異を覚える所有権の移動関係が一応首肯出来るのである。即

前認定事実によると本件五番の一、三反八畝二七歩が昭和五年一一月二二日訴外高橋儀助により五番の一山林一反歩、五番の四、山林二反八畝二七歩に分割され未登記のまま同人が死亡したので昭和八年七月一九日その家督相続人高橋繁治に於て相続登記と分筆手続をした上二筆共訴外高階敬蔵名義に登記し更に旬日を出でず同月二九日高階敬蔵は先に高橋儀助が分割したところに従い五番の一山林一反歩を五番の一山林二五歩外一〇筆に細分して各筆を部落民に移転登記し八月五日に五番の四を訴外樫尾喬蔵に移転登記している。

何が故にこの様な迂遠繁雑な手続を採つたのであらうか、右事実から推認出来ることは訴外高階敬蔵は恐らくは黒沢部落の代表者で部落代表として部落よりの所有権移転登記手続を遺漏なからしめるため個人名を出したものであらうということである。然らざれば一ケ月にも満たない期間だけ所有者となる意味がない。

更に高階敬蔵の前主高橋儀助についても同様な関係を推測するに足る事実がある。即ち五番を本件五番の一山林五反六畝二七歩と五番の二山林二反八畝一三歩に分割して前者についてのみ明治四四年四月二一日訴外高橋儀助名義に保存登記(五番の二については昭和四年七月二七日に漸く黒沢部落名義に保存登記している)した上大正元年(明治四五年)八月一二日訴外樫尾喬蔵に五番の三山林一反八畝歩を分筆所有権移転登記を行い、更にその生存中の昭和五年一一月二二日残りの五番の一山林三反八畝二七歩から前示の通り五番の四山林二反八畝二七歩を分割していることである。前記樫尾の証言を合せ考えるとこれ亦高橋儀助が部落の代表として先に部落から高階豊治に贈与し同人がその後樫尾良助に売渡した五番の三を先ず分筆して樫尾名義に登記し更に実地に適合させるため五番の四を分割したが分筆移転登記しないうちに死亡したので訴外高階敬蔵が之を代行したとも考えられるからである。樫尾喬蔵のため再度に亘つて五番の一が分割され五番の三、四が其の名義に変更された事情について成立に争のない甲第七号証の一によると樫尾喬蔵は本件五番の四は自分が生れて間もなく父が私の為買つてくれたということで物心ついたら自分の名義になつていたといい成立に争のない甲第一二号証によると同人は明治二八年一二月五日生であるから前認定の中山七番を良助が訴外高階豊治から買受けた日時が明治二八年一二月一六日であることを併せ考えると本件五番の三、四は七番と一体として売買せられたもので従つて五番の三、四の部分は一審原告主張の通りこれより先分水嶺を境として部落から高階佐藤右エ門に譲渡せられ同人の所有に帰していた事実を推認するに難くない。この点につき更に当審北島鑑定書が援用した山林原野其他原由取調帳に一つの解決の鍵が秘められている様である。即ち原由帳の中山七番山林の地積は一町八反歩で土地台帳より五反五畝六歩多く反対に五番の地積は六反六畝二八歩で土地台帳より一反八畝一二歩少く記載せられているので当時既に分水嶺を境として割譲せられ本件五番の三、四は七番として事実上扱われていたのではないかとも思われるふしがあるからである。

原審証人高橋新之助原審及当審証人樫尾喬蔵、高橋光新(当審第一、二回)成立に争のない甲第五号証の一、二、甲第六号証の一、二、三、甲第七号証の一、二、甲第一五号証の一乃至五、甲第一七、一八、一九号証に当事者弁論の全趣旨を綜合すると次の事実が認められる。

本件五番の山林は古来黒沢部落の所有であつたが明治二〇年代に部落の有力者である高階佐藤右エ門(或はその子高階豊治)に別紙第一図面の<イ><ロ>乃至<ナ>に至る分水嶺を境として五番の山林の東方部分一帯を贈与した。明治二八年頃訴外樫尾良助は右高階豊治から分水嶺以東の本件五番の三、四に当る山林を七番の山林と共に買受け更に逐次附近の山林を買続け約百町歩に余る一帯の山林所有者となり高橋東兵衛、高橋仁三郎、高橋新之助の三代に亘る一家を歴代山守に雇い本件一帯の山林の監守に当らせ爾来植林に力め、本件係争地附近一帯には明治四〇年頃の前後に杉を植樹し昭和初年には未だ分割の出来ていない本件分水嶺一帯に土盛、杭を打つ等して境界を明示すると共に黒沢部落に対してはその分割を求めていたので前示の通り次第に実状に合せて五番の三、五番の四が台帳上分割された上逐次分筆移転登記せられていつた。

其の間黒沢部落は勿論附近の山林所有者との間に紛争もなく良助の死亡により喬蔵が家督相続をした後も同様平穏な関係が続き昭和一一年八月二八日一審原告に附近山林全部と共に売渡された後も一審原告は引続き同じ高橋新之助を山守として管理させ本件係争を惹起するまで何等問題がなかつた。(原審証人樫尾喬蔵は原審に於て本件五番の四を明治四〇年高階豊治から買受けたと証言しているが高階豊治は成立に争のない乙第五号証によると明治三四年二月一九日死亡したこと明白で成立に争のない甲第七号証の一に於ては樫尾は五番の四は私が生れて間もなく父良助が買つてくれた云々と述べており明らかに明治四〇年頃植樹したという証言の誤記又は誤述と認められる)

原審証人藤田武雄の証言とその証言により真正に成立したと認められる甲第一号証、成立に争のない甲第九号証の一、二によると一審被告高橋徳蔵は本件紛争惹起後も当初は五番の二と五番の四の境界が本件分水嶺であることを承認していたこと明らかであつて甲第一号証は一審被告の主張する様な単純な誤記載とは認め難い 五番の三、四が訴外高階豊治に贈与せられた事実について一審被告は訴外高階豊治は明治三二年一二月九日大曲区裁判所で心神喪失の為禁治産の宣告を受け明治三四年二月一九日死亡しており五番の各地番山林につき同人が公簿上其の所有権を得た記載がなく五番は当時尚千屋村或は黒沢部落の所有であると争い右訴外人の身分関係については一審原告も之を認めているが前認定の様に本件土地が高階豊治方に贈与せられたのは明治二〇年代のことで然かも七番と一体の土地として扱われおり公図上地番が五番に属する以上分割手続がなされない限り従前の所有者千屋村或は黒沢部落有のまま台帳に記載されていることは当然であつて然るが故に後日黒沢部落から異議もなく対価もなく逐次五番の三、四と分割名義変更が行われたと認められるから右一審被告の主張は採用出来ない。(従つて本件原由帳の七番山林には贈与せられた五番の三、四部分を含み原由帳の五番山林からは之を控除してあつたのが土地台帳登載に当つては正規の区分界に従つた地積が記されたと推測出来ないこともないのである。)

(B)  千畑村役場備付絵図面について、

次に千畑村役場備付絵図面について検討する必要がある。抑抑本件紛争の原因をなしたのはこの絵図面の記載が因であるとも考えられる。成立に争のない甲第四号(甲第二〇号、乙一号も同一原図によると認められる)によると五番の五乃至一四の分割地区も記入せられているので同絵図面は同地区が分割された昭和七年一月四日以後迄引続き訂正加筆せられたと認められるのであるが原審及当審検証の結果、当審鑑定人沢藤雅也(二回)、北島四郎の各鑑定の結果によつてもこの公図は一言にして甚だ杜撰、不正確の譏を免れない。その主なものを挙げると次の通りである。

(1)  方位角の誤り

この図面の指す北は完全に東の誤である。従つて右図面に基いてなす一審被告の東西に接しても南北に接しないという主張は前提に於て誤がある。

(2)  分水嶺の誤り

古来境界の区分には、峰、谷、河川、沼沢等の天然地形線によることを通例としたことは沢藤第二回鑑定書の示す通りである。ところで明治初年の幼稚な製図法では実状と異なる地形図となり折曲線が直線で、直線が屈曲線で表示せられたとしても或程度已を得ないし要はその大略を見取ることが出来れば満足しなければならないことは自ら当然である。

然しその図形は可及的にその実状線に副う様に作図せられたであらうことは沢藤第二回鑑定書によつて認められる。右図面にある七番の一と五番の四に連なり七番の二乃至五の間に存する境界線は検証の結果に照すと別紙第一図面<リ>より<ナ>に至る嶺線に相当することは明らかである。而して五番の一より五番の一四と前記五番の四との境界線も前同<リ>から<ナ>に至る嶺線で略一線をなしているのにこの絵図面の七番の五と五番の一四の北側(事実は東側)線は平行線をなし七番の五は同図の西端(事実は北端)に於ても五番の四と接する様に描かれ事実は一線である七番の五と五番の一四の北側はその北西端に於て九〇度に交つている。

原審及当審検証(第一、二回)沢藤第二回鑑定の結果によると本件五番の山林には別紙第一図面表示の通り東西に走る一本の分水嶺(<イ><ロ>乃至<ナ>)があつて西から分水嶺北側に係争地(<イ>乃至<リ>)争のない五番の四(<リ>乃至<ヲ>)七番の一(<ヲ>乃至<ナ>)と続き、分水嶺南側に同じく西から争のない五番の二(<イ>乃至<リ>)五番の一乃至一四(<リ>乃至<カ>ヽヽ但<カ>点の符号部分に該当することは必しも正確を期し難いが)七番の五乃至二(<カ>ヽヽ前同ヽヽ乃至<ナ>)と分水嶺を境に併列して存し凹凸がないこと明らかである。

然も七番の二乃至五を結ぶ東側線(公図では北側線)は五番と七番の境界として分割前から記載されていた筈の線である。この分水嶺は比較的真直な線であるから之を延長すると五番の中央を貫いて沢線(現五兵衛沼)近くに併列する筈である。然かし分割前は右延長線の両側が共に五番の地域であつたから之の嶺線を記入してなかつたのは当然である。従つて五番の一から五番の五乃至一四の分割線を記入した者が何故に真実に反し明白なこの延長線によつて分割図を記入しなかつたのか、作図者の意嚮を推測するに恐らく各分筆の一筆が公簿上は各二五歩の小地域に過ぎないのに右直線に従つて記入すると過大な地積を示すことを惧れたのと本件五番の二の境界の不自然を殊更糊塗せんとしたかその何れかであらう。

(若し夫れ後記の如く別紙第三乃至第七図面の様に殊更始めてその際合流点を入れたとしたら何をか言わんやである。)

(3)  五番の四と五番の二との境界線の誤り

本件係争の凡百の原因はこの軽卒な一線によつて惹起したといつて過言でない。

この線は何時引かれたのであらうか常識的に考えて明治三七年六月始めて五番が五番の一と五番の二に分割せられた時であらう。(五番の二が保存登記されたのは前認定の通り昭和四年七月二七日である。)

ところでこれより先前認定の通り黒沢部落から分水嶺を境として五番の東方全域が訴外高階佐藤右エ門(又は高階豊治)に贈与せられているのであるからその分割線は分水嶺を超えてはならずその分割線の北端(事実は東端)は当然分水嶺に始まるべきであることは部落として当然心得ていた筈である。然しその手続を担当した者が公図上前記の通り分水嶺線の記入がないところから誤つて適当に引いた直線が偶々沢線に至つている分割図を提出した為係官も実地について測定もせずそのまま公図に記入した分割線の北端が合流点附近に偶々位置していたことが本件紛争の遠因をなしたと推定する外ない。(この合流点について尚一つの疑問が残る。一審被告訴訟代理人が昭和三三年七月二二日附当審提出の準備書面添付第一乃至第五略図ヽヽヽ別紙第三乃至第七図面ヽヽヽに昭和七年一月四日現在五番の一より五番の五乃至一四を分割した最終分割図に始めて合流点を記入し以前の分割図に合流点の記入がないのは単に訴訟代理人の誤記であらうかヽヽヽ別紙第三乃至第七図参照。)

この線が誤である証拠として更に次の諸事実を挙げることが出来る。

(イ) 原審及当審証人樫尾喬蔵、原審証人高橋新之助成立に争のない甲第六号証の一、二、甲第七号証の一、二によると本件係争地一帯には明治四〇年頃から四四年頃までの間に杉が植林されたことが認められる。然るところ沢藤第一回鑑定書によると係争地の伐根の年輪は四六年より四九年(鑑定時迄の年数を加えると五二年から五五年)を示し、伐採時が昭和二七年であることは当事者間に争がないので、二、三年の苗木を植えたとすると正に明治四〇年から四三、四年頃の植樹となり一致すること。

(ロ) 沢藤第二回鑑定書によるとアヤシ沼、五兵衛沼は人工沼なるところ原審証人高橋新之助、原審及当審証人樫尾喬蔵、当審証人高橋光新(第二回)の各証言によるとアヤシ沼は大正七、八年頃、五兵衛沼は昭和三年頃造られたものでアヤシ沼の水量不足を解決するため渓流がある樫尾喬蔵所有の沢地に沼を造るべく部落代表者が代替地を提供することを条件として樫尾の承諾を受け渓流を溜めて五兵衛沼を築造したこと。

(ハ) 原審証人高橋新之助、原審及当審証人樫尾喬蔵、高橋光新(当審は第一、二回)の各証言により認められる樫尾良助が買受後本件一帯に植林した杉を伐採搬出するため樫尾家に於て現五兵衛沼敷内に当る別紙図面<イ><1>乃至<6>を結ぶ線に沿うて山道を設けていたこと。

(ニ) 五番の二と五番の一の境界線は原審及当審第一、二回検証、沢藤第二回鑑定の各結果によつても概ね直線の別紙図面の<リ>(リ1)乃至(五12)を結ぶ線に当り境木と認められる杉が三、四間間隔に植樹されているのに、一審被告が境界と主張する右<リ>点の延長線<リ>(ナ23)乃至(ナ18)は<リ>点から抛物線を描いて係争地を包む線であつて地形上首肯するに足る境界らしきものなく僅に(ナ18)点を五、六本並んだ雑木の東端の一本に求めた人工線であること。

(ホ) 原審証人高橋新之助の証言で認められる五番の山林の分割が実地について行われず図面上で分割され、分筆図も実測せられなかつたこと。

以上の何れを採つても五番の分割について絵図面の境界線の引き方の誤を指摘するに足るものであつて当時未だアヤシ沼も五兵衛沼もなく公図上、七番と五番の境界の延長線たる分水嶺を引くと現五兵衛沼の沢線附近に来るところから適当に引いた一線が今日の争の基をなしたと認める外ない。

(C)  当審沢藤第二回鑑定書、同北島鑑定書について、

右両鑑定人は夫々独自の立場から鑑定をすすめて夫々鑑定による境界線を作出しその推論の経過を説明している。夫々一応の論拠を有するのであるが惜しむらくは両鑑定人共に当裁判所の如く前記各証人の証言や書証を知悉しないので前記不備の公図を唯一の根拠として鑑定をすすめ沢線まで引いた分割線に絶対誤りがないとの前提殊に合流点下の分割線の北端に固執し過ぎた嫌があつて右分割線に誤りはないかと見直す余裕を喪つていた様である。従つて争のない五番の四、五番の二との面積の対比や係争地の面積附近の地形からのみその境界線を求め様として沢藤鑑定人は合流点附近に<×>点を設け争なき五番の一と二と分水嶺の三合点別紙第一図面の<リ>点と<×>点を結ぶ直線に之を求め、北島鑑定人は五兵衛沼の東南端別紙第一図面の<6>点と分水嶺上の<ヘ>点を結ぶ線を境界と結論した。

然かし之は前記の通り公図が正しいことを前提とした結論に外ならず、結局一審被告が主張する五乃至(リ1)<リ>の延長線(ナ23)(ナ22)乃至(ナ18)を結ぶ人工線と大なる逕庭がないから当裁判所の前認定の妨とならない。最も事情を詳にする筈の一審原告にして仮令予備的主張とはいえ取得時効を云々するのも畢竟誤つた公図に拘泥するが故に外ならないのであるから両鑑定人の誤謬も已を得ない。

(D)  五番山林の分割について、

五番の山林は土地台帳上は次の通り四回行われたことが成立に争のない甲第二、三、一六号証及乙第一一号証の一乃至四、乙第三号証の一乃至四によつて認められる。

(1)  明治三七年 六月 五番の一、二

(2)  〃四五(大正元)年 八月一二日 五番の一、三

(3)  昭和 五年一一月二二日 五番の一、四

(4)  〃七年 一月 四日 五番の一、五乃至一四

然し乍ら前記各認定事実によると事実上の分割は

(イ) 明治二〇-二八年代に分水嶺を境界として本件五番の三、四に該当する地域と其余に、

(ロ) 明治三七年六月右残部の五番が五番の一、二に

(ハ) 昭和七年一月四日五番の一が五番の一、五乃至一四に

三回分割された丈であつて前記(2) (3) の分割は公簿上(イ)の分割に吻合させる手続上の操作に過ぎないのであつて右の事実は更に登記簿上から見ても(甲第二、三、一六号証、乙第六号証の一乃至四)五番の二が保存登記されたのは昭和四年七月二七日であるのに五番の一は明治四四年四月二一日保存登記せられ、五番の三が明治四五年(大正元年)八月一二日分筆登記され夙に本件五番の三、四が黒沢部落の支配下を脱したことを推認させるものである。

第三、五番の二、五番の四の境界に対する当裁判所の結論

以上認定し来つたところを綜合して当裁判所は本件一審被告高階弁治外二名共有の五番の二山林と一審原告所有の五番の四山林との境界は別紙第一図面表示の<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>の各点を結ぶ嶺線であると判定する。

以上の認定に反する原審証人高階十九二、高階佐一三郎、杉沢富三郎、高階弥兵衛、高階与八郎、原審及当審証人高橋敏郎、高橋郁治郎、高階宇一郎、高階喜三郎の各証言部分、甲第四、八、一〇、一一、二〇各号乙第一号証の夫々記載部分は当裁判所之を信用せず当審鑑定人沢藤雅也(第二回)、北島四郎の各鑑定結果部分も前示誤りがあるから其の部分は当裁判所之を信用せず他に右認定に反する証拠は存在しない。

して見れば一審被告高階弁治、高橋徳蔵、杉沢正直に対し別紙第一図面表示<イ><ロ><ハ><ニ><ホ><ヘ><ト><チ><リ>(ナ23)(ナ22)(ナ21)<A>(ナ20)(ナ19)(ナ18)<7><6><5><4><3><2><1><イ>の各地点を結んだ地域が一審原告の所有に属することの確認と、同一審被告等が右地域に立入り立木の伐採その他一審原告の所有権の行使を妨害する行為の排除を求める一審原告の請求は爾余争点に対する判断を俟たず正当であるから認容すべきものである。

第四、よつて進みて一審原告の請求する損害賠償請求の当否を判断する。

前段認定の通り明治年代から樫尾家の所有となつた本係争地附近一帯の山林は其の後一審原告の所有に移つた後も父子三代に亘る高橋新之助一家を山守として半世紀に垂んとする期間平穏公然に経営され来つた事実を同一部落に居住し然かも本件係争地の譲渡者である黒沢部落の構成員でもある一審被告高階弁治が知らない筈がないし殊に原審証人高橋新之助の証言によると昭和二六年九月頃部落の一員である訴外高橋敏郎等が本件係争地の一部を五番の二と誤り境界として一部の刈払いを行つたことを知つた一審原告の山守訴外高橋新之助が黒沢部落責任者に厳重な抗議を申入れた事実が認められるから一審被告高階弁治は本件係争地が一審原告の所有であることを知り乍ら絵図面の誤を奇貨として相被告小松喜一らに本件係争地の地盤と立木を売却したことが認められるから同被告は之によつて蒙つた一審原告の損害を賠償する責任があること当然である。

一審被告小松喜一、小松広治は高階弁治の言を信じて買受けたので尠くとも買受けの当初は善意であつたと推認せられるが原審証人高橋新之助、原審及当審証人高橋光新(第一、二回)の証言によると同被告らが伐採を開始した直後之を知つた山守高橋新之助父子が駈せ付けて抗議しその中止を申入れたに拘わらず之を肯わず伐採、搬出を強行して処分した事実が認められるから尠くとも過失により一審原告の権利を侵害したものというべく之によつて蒙つた原告の損害を賠償する義務がある。而して被告ら間の売買に基いて本件損害を惹起せしめた以上被告らは共同不法行為者として連帯して責に任ずべきである。

従つて一審原告は本件係争地の立木を伐採処分せられ右立木の当時々価価格に相当する損害を蒙つたと認められるからその金額につき案ずるに一審被告高階弁治が昭和二七年九月係争地内の杉立木一、二七三本材積二八七石三四八四、赤松一一本材積一五石五八〇八を一審被告小松喜一、小松広治に売渡し同被告らが伐採処分したことは一審被告らも明らかに争わず且原審鑑定人渡部巖の鑑定によつても認められるところ其の価格につき一審原告は当時の時価は金三〇万円以上と主張し成立に争のない甲第六号証の一、甲第八号証、原審証人高橋新之助の証言を綜合すると一審被告小松広治らは本件係争地の地盤を一二五、〇〇〇円立木を三五〇、〇〇〇円合計四七五、〇〇〇円で買受けたことが認められるけれども共同被告らは立木を三、七〇〇本あるという話を信じて買入れたところその半数にも足りなかつたことが甲第八号証の記載で認められ他に本件立木が原告主張の如く当時金三〇万円の価格を有したことを認めるに足る証拠がないから本件立木の当時の価格は原審渡部巖鑑定人の鑑定した杉立木二三一、八九〇円松立木三、七五五円合計金二三五、六四五円を相当と認める。

然らば一審被告高階弁治、小松喜一、小松広治に対し連帯して右金二三五、六四五円及之に対する伐採処分後であること明白な昭和二七年一二月一一日以降完済まで年五分の遅延損害金の支払を求める範囲内で一審原告の請求を正当として認容し爾余は失当として棄却すべきものである。

よつて昭和三二年(ネ)第一一一号事件控訴は理由がないから民事訴訟法第三八四条により棄却し昭和三三年(ネ)第一三号事件控訴については之と異なる原判決を民事訴訟法第三八六条に則り変更し訴訟費用の負担については同法第九五条、第九六条、第九八条、第九二条但書第九三条第一項を、仮執行及びその免脱宣言に付同法第一九六条第一、二項を各適用し主文の通り判決する。

(裁判官 小野沢竜雄 佐竹新也 篠原幾馬)

別紙 第一~七図面<省略>

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